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4. 冬とのたたかい
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移動祝祭日 告解の主日

 中世の復活節は120日もの期間があり、復活祭の9週間前に始まって復活祭の8週間後に終わる。カトリックでは復活祭に先行する9週間めの日曜日から七旬節に入り、1週間単位で六旬節、五旬節、四旬節と続く。復活祭は3月21日(春分)以降の満月から最初の日曜日とされるため、七旬節の主日も1月18日から2月21日の間を移動した。五旬節の主日は四旬節が始まる「灰の水曜日 Ash Wednesday (Feria IV. Cinerum) 」の直前の日曜日であり、告解の主日 Shrove Sunday と呼ばれる。1969年以降は新しい典礼暦が使用されているため、七・六・五旬節は存在しない。

 

移動祝祭日 謝肉祭

 四旬節の直前には、毎年3日間の懺悔季節 Shrovetide がある。かつてはこの懺悔季節に信徒に対して、四旬節を迎える前の「ざんげ」shrift をおこなうことが求められていた。この期間はまた、四旬節中に口にすることが禁じられている肉やそのほかの食物をすべて食べつくしてしまう時とされている。そのため腹がはちきれんばかりに肉を詰めこんで酒を飲み、冬の陰気さを吹き飛ばして馬鹿騒ぎをする習慣が生まれ、それが謝肉祭となった。

 英語の carnival という言葉は、ラテン語の carne vale (肉に別れを告げる)、または carnem levare (肉を減らす)から起こったといわれている。起源は冬至にローマの農耕神をまつったサトゥルナリア祭だとされ、歴代教皇の中には異教の大騒ぎの習慣を嫌った者も少なくない。カトリック教会の祭として一般に定着したのは中世とされ、ドイツのケルンで1234年の Karneval が記録にある。

 最終日の懺悔火曜日(告解火曜日) Shrove Tuesday に熱狂は最高潮に達する。この日をフランス語では jour gras (肉食日)、mardi gras (肉の火曜日)、ドイツ語では fetter Dienstag (脂の火曜日)と言った。イギリスやアイルランドではパンケーキを食べる習慣がある。灰の水曜日の前日、薄いパンケーキを作って中にいろいろな物を入れて食べ、断食に入る前に家に残っているすべての卵やバター、ラードを使い切るのだった。

 この行事には仮装や仮面行列がつきものであり、張り子の偶像や道化師が見物人を笑わせ、通りの窓からは紅白の紙つぶてが投げられた。最後には「万灯の催し」がおこなわれ、手に手に提灯を持った人々が互いの灯を消し合う。大騒ぎをするうちに0時の鐘がなり、街はうって変わって清らかな四旬節に入っていく。

 

移動祝祭日 四旬節 Lent (Quadragesima)

 謝肉祭後の灰の水曜日から、聖土曜日(復活祭前日の土曜日)までの40日間。3世紀以来、日曜日以外は肉食をつつしみ断食の苦行をする期間。

 灰の水曜日の名は「汝はちりなれば、ちりに帰るべきなり」との神の言葉を思い起こさせるため、信徒の額に灰で十字を描くことに由来する。この行事では慣例にしたがって、前年の「枝の主日」に使われたしゅろを焼いて祝別した灰が用いられる。

 カトリック教会では中世から、初期には痛悔者が頭上に祝別された灰をかぶり、後期には全員が額に灰のしるしをうけて懺悔の印とした。灰は「地上のものは一時的なものである」という象徴で、同時に罪に対する悔い改めのしるしでもある。これ以後、信徒は生活の浄化をはかり復活祭を迎える準備に入る。

 古代には重い罪を犯した人が教会の交わりから外され、回心の日々を外で過ごすという慣習があった。このとき荒布をまとって灰をかぶり、聖木曜日(復活祭直前の木曜日)に赦しを与えられて聖体拝領ができるようになるまで、回心と償いのわざを果たした。この習慣はやがて廃れたが、11世紀頃、教会では罪の意識を深め共に回心するため、象徴的に信徒の額に灰を授けるようになった。これには清めの意味もある。

 イエズスは処刑される前にエルサレムへ入城したとき、ろばに乗ってその門をくぐった。人々はユダヤ人の王、救い主であるイエズスを歓声と道に敷いたしゅろの葉で迎えた。この枝は「枝の主日」に教会で配られて1年間家に飾られるが、12世紀頃からは四旬節の前に集められて灰にされ、聖香油(司教が祝別した香料入りのオリーブ油)とともに灰の水曜日(あるいは四旬節の最初の日曜日)に信徒の額に塗られるようになった。

 

移動祝祭日 四季の斎日

 初代教会の習慣にしたがって、季節の変わり目の水、金、土曜日の3日間、節制に努め断食して祈りを捧げる日。春のはじめの四旬節第一主日、夏の聖霊降臨祭(復活後50日目)、秋の聖十字架称賛の祝日(9月14日)、冬の聖ルシアの祝日(12月13日)のあとの水、金、土曜日が斎日となる。

 

3/12 聖グレゴリウスの祝日

 グレゴリウス1世 S. Gregorius I (在位590〜604)は教皇権を確立し、大教皇と呼ばれた。古代教父に次ぐ思想家とされ、典礼形式(グレゴリウス典礼)と典礼音楽(グレゴリオ聖歌)を整備した。聖アウグスティヌスをアングロ・サクソンの地に派遣して人々の改宗につとめさせ、教会紛争などの難局に処して教会国家の基礎を確立した。教師、音楽家、学生の守護聖人とされる。

 グレゴリウス13世による暦の改定(1582年)までこの日が春分であり、ところによってはこの日から耕作が始まった。

 

3/19 聖ヨセフの祝日

 ヨセフ S. Joseph, sponsus B. Mariae V. はイエズスの父であり、大工として生計を立てていた。結婚する前にマリアが身ごもっていることを知ると、それを表ざたにすることなく縁を切ろうとした。だが夢に現われた天使が、マリアを妻として迎え入れマリアの産む子をイエズスと名付けるようにと告げ、ヨセフはイエズスの養父としての使命を担うことになった。イエズスが30歳になる前に亡くなったという。

 マリアとイエズスに付き添われて平穏な臨終を迎えたヨセフは、臨終の苦しみを和らげてくれるといわれた大工の守護聖人である。家族や結婚の守護者とされて15世紀後半ヨセフに対する崇敬が高まった。

 聖ヨセフの祭りでは、燃える杭を大地に打ち込んで耕地の清めをおこなって豊作を祈った。この日が晴天ならばその年は好天と豊作に恵まれるという。

 

3/25 聖母マリアお告げの祝日 Lady Day (Festrum Annuntiationis B. Mariae V.)

わたしは主のはしためです
お言葉どおり、この身に成りますように

ルカによる福音書1.38

 受胎告知。「お告げの天使」大天使ガブリエルが、少女マリアにイエズスの受胎を告げたことを記念する祝日。信心深く従順なマリアは、聖霊の力により処女のままイエズスを身ごもった。

 431年のエフェソスの公会議では「神の母 Theotokos (テオトコス、神を産んだ者の意)」と認定され、5世紀にはすでにこの祝日があったことが記録に残っている。日付の決定は12月25日の降誕から逆算して決定された。創世記第1章に「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」という記述がある。これを昼と夜を等分に分けたと推測し、 昼の長さと夜の長さが同じになる春分の日と考えた。ユリウス暦の制定時は春分が3月25日にあたり、受胎日を天地創造の第一日目と一致させたといわれる。この日が主日に当たる場合はそちらが優先される。

 この日は処女マリア焼きとしてわら人形の死神が焼かれ、最初の畝が大地にひかれる。マリアの受胎告知は春の胎動、農耕開始の目印であり、この日には占いが多い。この日を期してコウノトリやツバメ、タゲリなどが南方から戻ってくる。亜麻を植えつけ、結んで置いたブドウの蔓のひもを解く。

 

移動祝祭日 バラの主日 / 喜びの主日

 四旬節第4週の日曜日で、Mid-Lent Sunday や Laetare Sunday と呼ばれる。"Laetare Jerusalem" (よろこべ エルサレムよ)という入祭文で始まり、バラ色の祭服が着用される。

 バラは愛と美の女神に捧げられた花であり、ローマ時代、水にバラの香りをつけた「バラ水」が盛んに用いられた。キヅタやテンニンカなどの常緑の葉と、バラやスミレなどの香りの強い花で編んだ冠を頭にのせると酒に酔わないと考えられていた。キリスト教の初期の指導者たちはバラを宗教的な象徴と認めていなかったが、ローマ帝国の没落後は次第にキリスト教の象徴となっていく。中世には聖母マリアとバラを結びつけた伝説が数多く生まれ、聖母を「純潔のバラ」「神秘のバラ」と呼ぶようになった。

 カトリックでは教皇によって祝福された黄金のバラを、信仰の深い王族や貴族、名門、騎士、文人、あるいは司教会や都市に贈る習慣が生まれた。起源は明らかではないが、バラを贈る儀式は聖レオ9世 Leo IX (在位1049〜1054)によってはじめられたとされる。のちにこの儀式はいっそう荘厳におこなわれるようになり、「バラの主日」と呼ばれるようになった。初期の黄金のバラは5枚の弁がある一重咲きで、しばしばひとつ以上の花から成り立っていた。複数ある場合は一番上のバラがコップのような形になっていて、儀式の最中に教皇が中にバルサムと麝香を満たした。

 復活祭を間近にして春到来のきざしが見えることから、民間ではわら人形に服を着せてこれを冬の神と見なし、川へ流したり埋葬したりする行事がおこなわれた。教会では使徒書簡のうち「万人の母なるエルサレム」の一節が読まれるためか、各地に関連した慣習があった。イギリスには「母親訪問日 Mothering Sunday 」と呼ばれる、故郷を遠く離れて暮らす子供たちがシムネルケーキ simnel cake や贈り物を持って母親を訪問する習慣がある。

 

移動祝祭日 受難の主日

 四旬節第5週の日曜日で、Passion Sunday と呼ばれる。この日からイエズスの受難を記念する「受難の聖節 Passiontide 」が始まった。1965年の第2ヴァティカン公会議の改革により、1969年以降は「受難の主日」と「枝の主日」は同じ日におこなわれるようになる。

 イングランドの北部やスコットランドでは 'Care Sunday' (悲しみの主日)、'Carlings Sunday' (炒り豆の主日)と呼ばれ、ウェールズでは 'Sul y Pys' (エンドウマメの主日)の呼び名で知られている。これは 'Passion Sunday' を 'Peasen Sunday' と混同したものと思われ、各地では乾燥したエンドウマメを使った料理を食べる習慣がある。

 

移動祝祭日 聖週間

 復活祭前の1週間。「悲しみの週」「苦難の週」などとも呼ばれる。スペインでは町や村の教会から聖像が運び出され、とんがり帽子(ペニテンテ)で顔を隠した信徒たちによって守られながら行列が続く。セヴィリャではサエスタという重々しい音楽にあわせ、52の教会から1週間かけて聖像が大聖堂へと運ばれる。

 この時期に相当する福音書の記事は「受難物語」として、早い時期から成立していたと考えられる。4世紀のエルサレム教会ではこの1週間に毎日それに応じた行事があったことが「エテリア巡礼記」(スペインの修道女エテリアがエルサレムへの巡礼の際に書いた巡礼記)からわかる。エルサレムで盛んになった聖週間の典礼は、次第に各地の教会でもおこなわれるようになった。

日曜日 エルサレム入城
月曜日 宮きよめ(神殿から商人を追い出す)
火曜日 宮での数々の問答・たとえ話・終末の預言
水曜日 ベタニヤでの塗油・ユダの裏切り
木曜日 洗足・最後の晩餐・ゲッセマネでの祈り・逮捕・審問
金曜日 総督ピラトの尋問・ユダの自殺・十字架

 復活の日を迎える「主の過ぎ越しの聖なる三日間」は聖週間の中でも特に重要視される。1日目が聖木曜日、2日目が聖金曜日、3日目は聖土曜日または復活徹夜祭とされているが、1日の境目が日没時という当時のユダヤ暦に従って区切られるため、正確には以下のようになる。

1日目:木曜日の日没から金曜日の日没まで(ユダヤ暦の週の第6日)。最後の晩餐からイエズスの死と墓に葬られるまで。
2日目:金曜日の日没から土曜日の日没まで(ユダヤ暦の安息日)。教会はイエズスの墓のもとにとどまり、受難と死をしのぶ。
3日目:土曜日の日没から日曜日の日没まで(ユダヤ暦の週の初めの日)。この夜、教会は復活徹夜祭を盛大に祝い、翌朝の復活の主日のミサ、復活の主日の晩の祈りで締めくくる。

 

移動祝祭日 棕櫚の主日 / 枝の主日 Palm Sunday (Dominica in Palmis)

 イエズスがエルサレムに入城した際、出迎えた群衆は自分の衣服やしゅろ(ナツメヤシ)の枝を道に敷いて祝った。「棕櫚の主日」とはイエズスのエルサレム入城を記念して、信徒達が祝別されたしゅろの枝を持ち行列するところからおこった呼び名である。この日から教会の典礼の頂点「聖週間」に入る。

 この日の式は枝の祝別、枝の行列、ミサの三部に大別される。エルサレムにおける枝の行列はミサの後におこなわれていたと400年頃の巡礼記はつづっているが、現在の典礼では開祭の部でおこなわれる。イエズスがロバに乗って入城したことから、かつてはイエズスの像をロバにのせて引いてまわったロバ行列があった。

 南ヨーロッパではしゅろの葉でさまざまな飾りをつくり、教会のミサに出かけ祝別されたあと、家の戸口や家畜小屋などいたるところに飾っておいた。北ヨーロッパではしゅろの葉が手に入りづらく、他の枝で代用したことから「枝の主日」と呼ばれている。ヤナギ、ハシバミの穂花、もみの木、イチイなどの常緑樹の枝が使われ、この日の枝は「生命の若枝」として平安と恵みをもたらす聖なる枝であった。また畑や果樹園にさし、雷雨やあられの被害から守る魔除けとする。

 

移動祝祭日 聖木曜日 Maundy Thursday (Feria V. in Coena Domini)

 イエズスが最後の晩餐のときに、使徒の足を洗ったことを記念する日。

 この日に司教、王、貴族、及び善良なキリスト教徒は貧者を迎えた。その数は十二使徒の記念になるべく12人であることが望ましく、かつてイエズスがおこなったように、自ら彼らの足を洗って食卓に招いた。夕方には聖体の秘蹟の制定を記念して、主の晩餐のミサが捧げられる。このミサは最後の晩餐を直接記念するものとして必ず夕方におこなわれた。主の晩餐を木曜日に祝った最初の記録が4世紀後半にある。

 ドイツでは12世紀頃から「緑の木曜日 Gruendonnerstag」と呼ばれるようになった。Gruen (緑)とつく理由には諸説あるが、greinen (めそめそ泣く)という語に由来するとされる。その意はイエズスの受難を悲しんで泣くのではなく、四旬節の間に今まで犯した罪を悔いて泣き続けた人が、この日に泣きやむことができることからという。

 上部オーストリアでは教会の鐘が鳴らないこの数日間に、男の子たちが Ratschen (音を出す木製の道具)を持って村を回り、お金や卵をもらう習慣もあった。その騒々しい音は冬の眠りから覚めやらぬ自然を起こし、悪霊を追い払う力もあると信じられていた。この日は7種類の薬草のスープや9種類の野菜、薬草を煮て食べて無病息災を願った。この日に生まれた卵は「免除の卵」といわれて祝福の力を持つものとして特に珍重された。

 

移動祝祭日 聖金曜日 Good Friday (Feria VI. in Parasceve)

 イエズスがユダの密告によりローマ軍にとらえられ、偽りの裁判と拷問の末、ゴルゴダの丘で処刑された日。人々は仕事を休み静かに家に閉じこもる。

 この最も厳粛で不吉な日に仕事をすれば、大半が不運な結果をもたらすといわれた。その一方で種まきや植えかえ、果樹の手入れによいとされ、害虫を追い払い、病人の治療などに適した日としてあらゆる呪術がおこなわれた。ただし土を掘り返す際は、木製の踏み鋤を用いる方が安全である。

 この日に鉄製の道具を使ったり釘を打ち込むことは、イエズスをもう一度十字架に釘付けにすることになるとして恐れられた。ある洗濯女がイエズスをさげすんで汚水を浴びせかけたという故事から、この日に洗濯すると家族の中に死者が出たり、外の洗濯物に血痕がつくと信じられた。

 カルバリの処刑場にひかれてゆくイエズスに、パンを差し出した女の親切な行為を記念して、聖金曜日に焼いたパンは決してかびないといわれた。この日は hot cross bun (十字架の形を刻んだうす甘の丸パン)を食べる習慣がある。

 これはギリシャ時代、人々がパンに角の印を付けて焼き、フェニキアの豊穣と愛の女神 Astarte (ギリシャ神話の Aphrodete )に捧げたことに由来する。乾燥させてすり下ろし、ミルクの中に入れて食べればあらゆる胃腸疾患に効果があるという。水夫を水難から、家を火難から守るともされた。

 各地でイエズスの受難劇が教会あるいは屋外で演じられる。

 

移動祝祭日 聖土曜日 Holy Saturday (Sabbato Sancto)

 聖金曜日で聖週間は閉じられる。教会では復活徹夜祭の準備をし、イエズスが墓に葬られた「聖なる安息日」として、一切の公の礼拝はおこなわれない。人々は真夜中の復活のために部屋を清め、新しいろうそくを整え、復活祭の料理を準備しながら忙しく過ごす。

 かつてはこの日ミサを献げず、晩から翌朝にかけて復活祭の準備の聖式をおこない、夜明けとともに終了して引き続き復活のミサをあげ、一同聖体を拝領していた。8世紀からその聖式を聖土曜日の午後に移し、さらに14世紀からは同日の朝方におこなうことに決めた。1951年2月に教皇ピオ12世はこの式を復活の前夜に執行することを定めた。

 教会ではこの日の早朝、すべてのろうそくを消す。古い棺の板、墓地の十字架や飾り物、古い年のろうそくなどが火の祝別のために集められ、火打ち石を用いて新しい火が燃やしつけられる。一同は火のそばに集まり、司祭は火を祝福する。この火で司祭は復活のろうそく(小枝や花で飾られた大きなろうそく)に火をともし、ろうそくを持った助祭と司式司祭を先頭に聖堂に入る。

 暗闇の中を聖堂の後方に入ると、立ち止まってろうそくを掲げながら「キリストの光」と歌う。一同はそれに答えて「神に感謝」と応じる。司祭は自分の手に持ったろうそくに復活のろうそくから火を移す。さらに後ろに続く信徒のろうそくに火を移していく。参列する信徒は皆、イエズスのいのちを受けたしるしに各々のろうそくに光を受けていく。

 祭壇の前に来ると助祭は中央のろうそく台に復活のろうそくを立て、香を焚いて復活賛歌を歌い始める。教会内のろうそくに再び火がともされ、輝くばかりに神々しい中で合唱が堂内に響き渡る。言葉の典礼に移り、旧約聖書から7つの朗読、使徒の手紙、福音が朗読される。旧約の朗読と新約の朗読の間に栄光の賛歌が歌われ、教会の鐘が一斉に鳴り響く。

 諸聖人の連祷を合唱したあとで、洗礼用聖水の祝別式に続き志願者の洗礼がおこなわれる。参列者がそれぞれ自分の洗礼を意識するため、洗礼水が一同に振り掛けられて感謝の典礼(普段のミサの後半部分)へと続く。感謝の典礼は昔から徹夜のミサとして日曜日の明け方あたりにおこなわれたものだった。

 

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