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3.新年の訪れ
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12/31 ジルヴェスター(大晦日)

 聖シルウェステル1世 S. Silvester I (在位314〜335)は新年の祝祭に自分の名前をつけ、歴代教皇の中で唯一暦に名を残している。

 コンスタンティヌス大帝(=1世、在位307〜337)に洗礼を授け病気を治療したといわれ、下賜された土地に大帝の力を得て、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ聖堂 S. Giovanni in Laterano を建てた(実際の建立は前任の聖ミルティアデス Miltiades 在位311〜314)。最初は「救い主聖堂」と呼ばれたが、13世紀に聖ヨハネ(イタリアではサン・ジョバンニ)の名が加えられ「ヨハネ大聖堂」として通用している。全世界のカトリック教会中で最高位の教会である。

 この日は各地で鈴を大きく鳴らし、鞭をうち、角笛を吹き、教会の鐘を鳴らす。その騒々しいばかりの音は古い年のあらゆる悪を追い払うための魔除けであった。スイスのアルペンツェル州では、森や山からの訪れ神クロイセが現れ、鈴を鳴らしながら家々を訪ね歩く。

 

12/26〜1/6 十二夜 / 十二燻夜

 12月24日から1月1日まで、あるいは6日の公現節までは重要な季節の変わり目として降誕節 Christmastide と呼ばれる。また降誕祭前夜から公現節前夜までの夜を十二夜 Twelve Nights と呼ぶ。ローマ時代には12月17日から7日間にわたって農耕の神サトゥルヌスの祭り(サトゥルナリア)が盛大におこなわれた。祝宴と馬鹿騒ぎの期間で、のちに謝肉祭へと移ったが、新しい年を迎えるにあたって力のみなぎる王の復活の儀式がおこなわれていた。

 この時期地上では生き物の姿が見あたらず、木も草も枯れて雪につつまれ埋もれてしまう。今まで抑えつけられていたあらゆる悪霊が現れ、嵐の夜には魔王が軍勢を率いて空を荒れ狂い、地下からは死霊が群れをなしてはいあがってくると恐れられた。冬の悪霊や死霊にうち勝つために自ら仮装することによって霊力を授かり、魔物を追い払う行事が盛んにおこなわれた。南ドイツやオーストリアでは、家や家畜小屋などを煙でいぶすことから十二燻夜とも呼ばれる。

 占いの夜でもあり一度だけ未来について聞くことができるとされたため、よく恋占いや天候予測がおこなわれた。

 

1/6 公現節 Epiphany (In Epiphania Domini)

クリスマスは今日で終わる、十二日節を最後に
古い年に別れを告げて、新しい年を喜びむかえん

ウェールズの十二夜のキャロル

 救世主の誕生を聞いた東方の3人の賢者(占星術の学者でのちにカスパル、メルキオル、バルタサルと名付けられた。ゾロアスター教の司祭であったともいわれる)は、星に導かれてベツレヘムの馬小屋を訪ね、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。それが1月6日だとされ、降誕後ユダヤ人以外の異邦人に初めて公に現れたことを記念する。この日の前夜には12日間で最もにぎやかな祝宴が催された。

 三博士は青年、壮年、老人という人間の三つの時期をあらわし、三つの贈り物もイエズスの生涯の局面を象徴的に言及しているとされた。黄金はキリストの王権、乳香は祭司職を、防腐処理用の没薬は受難と死を意味しているといわれている。

 多くの国や地方では、前日の夕暮れからこの日にかけてクリスマスの飾りを片づける。1日でも長く飾っておくとひどい不運に見舞われるとされた。だが中には2月の聖燭節までそのままにしておく地方もある。

 この日は十二日節 Twelfth Day とも呼ばれ、悪魔たちが再び大群をなして現れると考えられた。そのため各地でおこなわれる公現節の行事には仮装したおそろしい悪魔の群れが現れる。また悪魔のために窓際に食べ物を出して置くところもあった。

 

1/17 聖アントニウス修院長

 旧暦の十二日節の前夜。

 聖アントニウス S. Antonius A. は3世紀中頃、エジプトのメンフィス Menphis の近くで裕福な地主の家に生まれたとされる。両親の死後は遺産をすべて貧しい人々に与え、隠修士として荒野で生活し孤独の中で禁欲と苦行を自らに強いた。己の欲望と戦ってことごとく悪魔の誘惑をはねつけ、教えを乞う人々に修道規則を与えて禁欲生活の方法を指導した。のちに「修道生活の父」「荒野の泉」と呼ばれる。家畜や肉屋、墓堀人の守護聖人。十四救難聖人のひとりでペスト、丹毒、脱疽などの疾病や火事から救うとされた。聖画には頭巾のついた修道服をまとう髭を蓄えた老人として描かれる。象徴する持ち物は「アントニウスの十字架」と呼ばれるT型十字架であり、Tはギリシャ語で神を意味する 'Theos' の頭文字からきているともいわれる。

 

1/20 聖セバスティアヌス殉教者・聖ファビアヌス教皇殉教者

ファビアン・セバスチアンは
樹木と日射しが成長をはじめる

日が長くなるにつれて
寒さも厳しくなる

 セバスティアヌス S. Sebastianus M. はフランスのナルボンヌ Narbonne の貴族の家に生まれ、3世紀末から4世紀にかけて活躍した。信徒であることを隠してローマの軍隊に入り、ディオクレティアヌス帝(在位284〜305)の寵愛を受けて親衛隊長となる。キリスト教徒への迫害が激しさを増していき、仲間を励ますために訪問したり援助をおこなうことも多かった。拷問を受けている同僚に信仰を捨てるよりも死を選ぶよう勧めたことから、皇帝の怒りを買い兵士たちから矢の雨を浴びせられる。奇跡的に命を取り留めたものの、回復後にキリスト教徒に対する残虐な迫害を糾弾しに行き、棍棒で打ち殺されて殉教した。

 杭に縛りつけられ大量の矢を射かけられた姿は、のちに多くの画家たちによって好んで描かれた。射手や兵士の守護聖人であり、十四救難聖人のひとりでペスト封じの守護聖人ともされた。当時ペストはアポロンの放つ矢によって発病すると信じられていた。大量の矢を射かけられても死なないならば、当然ペストにも強い抵抗力があるだろうと考えられたためである。アイルランドのアルスター神話に登場する英雄、ク・フリン Cu Chulainn がモデルになっているともいわれる。

 

1/25 聖パウロの回心 (Conversio S. Pauli Ap.)

パウリの回心で
冬の半分は去り、あとの半分がやってくる

 聖パウロ S. Paulos Ap. はもとは熱心なユダヤ教徒でキリスト教徒を迫害していたが、イエズスの啓示を受けて回心した。当初キリスト教はユダヤ教の分派的な立場にあり、異教徒はまずユダヤ教に改宗する必要があった。パウロは直接キリスト教徒になれるようにしてさまざまなユダヤ教的習慣を廃止する。その上でイエズスを従来の「律法(ユダヤ教徒が神と取り交わした契約)」にかわるものとした。今までの神との契約(旧約)にかわり、イエズスを通した新しい契約、つまり「新約」が結ばれたと解釈したのである。積極的に異教徒の国々へ伝道をおこない、現在のキリスト教の基礎を形成した最大の功労者となった。

 

2/2 聖マリアのお潔めの祝日 (Purificatio B. Mariae V.)

お潔めの祝日には畑に豆をまき
ろうそくや燭台を投げ捨てよ

お潔めの祝日に雨や雪が降れば
冬は去って戻っては来ない
お潔めの祝日がよく晴れれば
冬がまたぶり返す

 旧約時代モーゼの律法によれば、男の子を生んだ婦人はだれでもその40日目に、神殿に行って感謝の犠牲を献げることが義務となっていた。捧げる物としては子羊一匹と雛鳩一羽が普通であり、貧乏人であれば鳩二羽でもよい規定であった。もっとも生まれた男の子が初子である場合には、その他に多少の献金をしなければならなかった。

 マリアはイエズスの誕生後40日目に、清めの儀式を受けイエズスを奉献するためにエルサレム神殿へ行った。そこで年老いたシメオンに出会う。シメオンはイエズスが「異邦人を照らす啓示の光」となることを預言した。

 仮にイエズスが12月25日に生まれたとするならこの日は2月2日ということになり、これを記念して教会ではミサの前にろうそくの祝別式がある。そのため「マリアの光のミサ」「聖燭節 Candlemas 」とも呼ばれ、冬の間使い古したろうそくを教会に持っていき、新しいろうそくをもらって家に帰った。フランスなどにはこの祝別されたろうそくをしまっておいて、臨終の時に灯をともす習慣がある。

 ろうそく行列がおこなわれ、ろうそくの火を囲んで踊り、家の中や門口、家畜小屋や農具などあらゆるところにろうそくの火がともされた。この日は1年を通じて最も天気占いに適した日であり、太陽が輝く暖かな日よりも雪が降る厳しい寒さの日である方が、来るべき春がよい天気であるとされた。

 この祝日はすでに4世紀頃からエルサレムでおこなわれ、6世紀頃からローマでもおこなわれるようになった。ろうそく行列は教皇聖セルギウス1世 Sergius I (在位687-701)が、ローマ神話のユノ Juno をたたえるろうそく行列と置き換えようとして始めたともされる。ろうそくの祝別式は10世紀からフランスで始まったという。

 

2/5 聖アガタ童貞殉教者

 聖アガタ S. Agatha V. et M. は3世紀にシチリア島のカターニア Catania で貴族の家に生まれた。その美貌に目をつけたシチリア総督は、アガタを愛人にしようとたくらんだがかたく拒まれた。総督は信仰を捨てさせようと拷問にかけ、思いあまって乳房を切り落とす。傷だらけで瀕死の体は夢枕に立った聖ペトロによってすべて元通りになり、感極まったアガタは感謝の祈りののち昇天した。

 聖画では切り取られた乳房を皿にのせて持つ姿が描かれる。胸部疾患に悩む人々の守護者であり、象徴する持ち物は拷問具のナイフや、処女の象徴とされる一角獣の角などである。乳房の形が釣り鐘に似ていたと伝えられ、釣り鐘職人の守護聖人ともされる。エトナ火山が爆発したとき、墓を覆っていた絹の布が投げ込まれると溶岩の流れが止まったと伝えられ、火災や地震など天変地異の際に守護してくれるとして崇敬された。

 

2/22 聖ペトロの使徒座

ペテロ教皇座の日が凍っていれば
まだ40回以上氷が張る

 聖ペトロ S. Petrus Ap. がアンティオキア Antiochia に使徒座(司教座)を定めた記念日。民間では冬が終わり春のはじまりとして、農耕儀礼がおこなわれる。十二使徒のひとりであり使徒の頭であったペトロは、教会の最初の司教としてアンティオキアに使徒座を置いた後、ローマへ伝道に行きヴァティカンの丘に使徒座の基礎を築く。古代ローマでは2月22日に亡くなった家族を記念する習慣があり、初代教会もその慣習を取り入れて教会の礎であるペトロを記念した。

 

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