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 最も数が多かったのは、俗語の読み書きを教えた教師である。1288年のミラノでは、このような読み書きを教える教師が70人もいたといわれる。彼らは「子供の教師 doctor puerorum 」などと呼ばれていた。算術や簿記などの会計学の初歩を教える「そろばん教師 abachista 」たちもまた、「子供の教師」より数は少ないものの、重要な役割を果たしていた。算術の学校はまさに、都市商人層の現実的な教育要求を満たすものだった。

 その意味では、公証術を教える教師や「文法教師 grammaticus 」が開いた学校もまた、商業活動から生じる必要を充足する学校だった。当時の商業活動が厳密な契約に基づいておこなわれたため、ラテン語で書かれた商業文書の解読と作成は都市商人層にとって必要不可欠の知識となっていた。こうして読み書きの教師やそろばん教師、公証術教師や文法教師などの学校が、私塾という規模のものから比較的大きな寄宿学校という規模のものまで多数出現し、教会学校と混在することになった。

 このような世俗教師の学校の繁栄が、従来の教会教育と衝突することは容易に想像できる。教区学校では読み書きを教えていたし、司教座聖堂学校では文法などを教授していたから、教育内容の点では世俗教師の学校と重複するところがあった。違いは教育の内容そのものにあったのではなく、同じラテン語文法なら文法を聖職者としての活動に役立てるか、商業取引などに役立てるか、という教育目的の違いだったにすぎない。

 そのため初期には、教会学校の教師と世俗教師とが生徒の獲得をめぐって個人的に争うようなこともあった。1273年にジェノヴァの司教座聖堂学校教師アンドレアと世俗教師グリエルモ・ダ・ノヴァラは、以後一年間は現在受け入れている以上の生徒を受け入れない旨の相互契約を交わしている。この契約がノヴァラ出身の放浪教師と教会学校教師との間で起きた、生徒獲得をめぐる抗争の調停を意味していることは明らかである。

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