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序 

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 現代の教会祝日表の原型に当たるラテラノ聖堂用の暦は、354年にはすでに書かれていたが、世俗では年始について地方によりそれぞれの習慣があった。フランス王宮やネーデルラント地方の公証人は復活祭で年度をかえた。この祝日は毎年移動するのである年には1年が13か月、ある年には11か月になり、3月あるいは4月の某日が同じ年度内にくり返される可能性があった。

 フランス南西部のフィジャック Figeac では3月1日に年が改まり、次の地域では「お告げの祝日」(3月25日)に年がわりは一致していた。南フランス、北部のモンディディエ Mondidier、ボーヴェ Beauvais、北東部のランス Reims、ロレーヌ Lorraine 地方、ドイツ西部のケルン Koln / Cologne、イングランド、スコットランド、アイルランドなど。

 一方、12月25日を年始に選んだ地域もある。フランス北西部のアンジェ Angers、ヴァンドーム Vendome 地方、ノルマンディー Normandie 地方、北部のソワッソン Soissons、南東部のドーフィネ Dauphine 地方、スペインのいくつかの大諸侯領ほか。庶民にとっての新しい年は、降誕祭と「御公現の祝日」(1月6日)の間の時期に始まった。

 ゲルマン人は季節を冬と夏に二分し、いわゆる春は「若芽どき」と呼んだ。南ヨーロッパでも「小さな夏」(ヴェラーノ)、「大きな夏」(プリマヴェーラ)と分けたように、1年は冬と夏のふたつの季節に区分されていた。「春」や「秋」が加えられるのはのちのことである。

 ローマでは紀元前153年以降、新年は1月1日に変更されていたが、2月23日に国境の守護神テルミヌスの祭り(テルミナリア)が盛大におこなわれ年末の風物詩となっていたため、以後も3月1日を新年として祝っていた。

 イエズスは生誕(12/25)から8日目にユダヤ教の割礼を受けたとされ、キリスト紀元(西暦)で割礼の日を1月1日とした。これは当時の教皇聖ヨハネス1世 Johannes I (在位523〜526)の要請により、525年にデュオニシオス Dionysius Exiguus が考案した。この年初を「割礼年初」という。これがヨーロッパ全土に広まるには数世紀を要し、公式の暦は10世紀ごろ割礼年初に統一されたといわれる。後代においてデュオニシオスの計算に誤差が見つかり、イエズスが生まれたのは紀元元年でないことは半ば定説となった。

 1年を365と4分の1日としたユリウス暦年(紀元前46年に制定)は、実際の太陽年よりわずかに長すぎたため、12世紀には9日のずれが生じていた。1582年に教皇グレゴリウス13世(在位1572〜1585)は新暦(グレゴリオ暦)への移行を断行し、10日間のずれを切り捨てて太陽年との誤差を修正した。現代では旧暦(ユリウス暦)と太陽年の誤差は13日にまで広がっている。たとえば昔から五月祭にふさわしいとされてきた慣習行事は、新暦では5月1日ではなく5月14日に当たるということを念頭に置く必要があるだろう。

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