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 ここで教えられることは、主にラテン語の文法や諸規則、古典(ヴェルギリウス、オヴィディウス)解釈の基礎であり、ラテン語を誤りなく話すことだった。教育の方法は基本的に暗記で、その成果を上げるために棒やむちが使われた。偉大な教師たちが算術、天文学、音楽、医学などを教えたところもあった。

 教区学校は教区教会の司祭が実質的に教師を兼務していたが、司教座聖堂学校の場合は、教師が聖職者の中から特別に任命された。この司教座聖堂学校の教師は、一般にスコラスティクスあるいはマギスコラと呼ばれ、司教もしくは聖堂参事会によって任命された。

 マギスコラの司教座聖堂における職階上の地位は、もともとあまり高くはなかった。しかし教皇庁が教育令を発布した12世紀以降に急速に地位を上昇させ、職階上においては助祭長などの高位に達した。司教代理を務めたり聖堂参事会の一員となったりもした。ところがこのような地位の上昇は、その教職としての職務の形骸化をうながした。彼らが教鞭をとることはなくなった。司教座聖堂学校の他の教師を任命したり、さらには司教区内のすべての学校を監督したりするカンケラリウス(学監)としての機能を果たすようになっていった。

 これらの教会学校の教師たちは、基本的に聖職禄という安定した収入を教会から与えられた聖職者に他ならなかった。修道院学校では修道士が、教区学校では教区司祭が、司教座聖堂学校でも聖職者が教師を兼務していたことに変わりはない。マギスコラを助祭長が兼務する場合などには、教職のための特別の聖職禄が付与されたが、それは特別手当のようなものだった。それによって彼らが聖職者である前に、教師だったことにはならない。教会学校では授業料を取ることが原則として禁じられていたため、教授活動による収入というものもなかった。あくまで彼らは教師である前に、聖職者だった。したがって彼らに、移動の自由と教育の自由はありえなかった。

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