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 当時の文献に、一市民ウィリアム・フィッツ・スティーブンが1183年前後に書き残した『もっとも高貴なるロンドンの街についての記述』がある。その中では12世紀末に王権の拠点として、また商業中心として著しい成長を遂げ始めていたロンドン(人口2万5千人)の都市風景をかいま見せてくれる。
 彼は聖ポール教会やその他の教会建築について述べた後、テムズ河畔でのブドウ酒やさまざまな食料品の取引、市門の外での馬や農具の市場の賑わい、謝肉祭や宗教劇の上演など市民たちの戸外での娯楽を、音や匂いにまで言及しつつ描写している。そのうえでロンドンを古代ローマに比肩させつつ以下のように述べている。

 私は、教会通いの尊重、祭日の遵守、慈善活動、異邦人の歓待、婚礼の祝い、宴会の造作、客のもてなし、死者の葬儀と埋葬の儀式に対する配慮などにおいてこの町の慣習以上に優れた都市があるとは思わない。ロンドンの唯一のやっかいものは愚か者たちの節制のない飲酒と頻繁な火事である。

 中世の都市空間は狭小な上に過密だった。通りは狭く曲がりくねっていた。市民の住宅も部屋数は少なく、一般に三階から五階建てでプライヴァシーや快適さを欠いていた。職人や商店主の家は一般に木造で、切り妻の壁面が街路に面し、ブロックごとに連続した長屋式の建築だった。よく通りに張りだして建てられていたため、開口部が戸口の他、わずかな窓に限られており採光もよくなかった。

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